義務教育とは単純労働者の育成機関である

確かに義務教育においては1つの科目を極めると言った教育は行なっていないが、これは大学の専門課程や専門学校がその役割を担っている。そして我々は、さまざな学問の中から専門的な知識を1つか2つでも持っていれば、分業社会の中では十分生きていける。むしろ、複数のジャンルを組み合わせることのできる人間ほど、社会においては有利と言えるだろう。

 

やはり義務教育は、お金やサービスを生み出すためのビジネス教育には特化しておらず、工場労働者のような既に開発された製品を、管理者の指示によって、決められた手順で組み立てるような人間が評価される教育システムであるといえる。

 

しかし、学校教育の意義とは、「世界の歴史」「社会の仕組み」「物体の摂理」「生物の構造」を知ることで全体を理解し、自分が現在どの地点にいるのかを把握することにある。自然の摂理や社会の構造を知らずに生きることは、ルールも知らないままゲームをプレイするのと同様であり、ルールを熟知したベテランプレイヤーに負け続けることになるのだ。

そして「付加価値」とは、既存の商品や知識、アイデアに「上乗せされた価値」であり、それを生み出すためには、「既存の情報」を徹底的に習得する必要があるのだ。それこそが学校教育であり、その基礎部分(それも極々基礎レベル)に当たるのが義務教育である。既存の知識を徹底的に学び、自分の現在位置を明確にした上で、新たな付加価値を想像する。そういった意味でも、大学教育は非常に重要であるのだ。(むしろ大学教育が基礎レベルといえる)

 

付加価値を提供できない単純労働者から抜け出すためには、既存の情報を徹底的に学ぶため、大学と同等かそれ以上の知識を、今からでも習得する必要がある。しかし、単純労働者が悪いと言っているのではなく、どんな人間でも現状に満足していれば、幸福な人間であるし、いくら金持ちであっても、現状に満足していなければ不幸と言える。現状に満足していないのであれば、何かを学び始めよう。人間は何歳からでも学習を始めることができるのだ。

 

カール・マルクスが「学問をするのに,簡単な道など無い。だから、ただ学問の険しい山を登る苦労をいとわない者だけが、輝かしい絶頂を極める希望をもつのだ」 と言い残したように、学問やビジネスにおいても楽な道など決して存在しないのだ。我々も偉大なモノを手に入れるために、時間や努力という代価を積極的に支払おう。

 

 

上記の文は、教育のありかたについてである。

充実した教育が受けられるに超したことはないが、中には教育を受ける機会さえ与えられない子供がいることも知らなければならない。

教育ほど大事なものはないと僕は身をもって感じています。

日本の教育にどうこう言うつもりはない。

だが、事情があって学校に行けない子供がいるということは看過できない。

教育は全ての子供たちに普遍的なものであり、大人の事情で子供の教育が疎かになることだけは阻止せねばならない、と僕は思う。

人格形成、アイデンティティ、倫理観、道徳観 これらを司るのが教育である。

これらを無視して社会に交われるだろうか?

社会に適応できるだろうか?

先ほど述べたように、自分自身が身をもって教育の必要性を感じている。

このことについては、次回話そうと思います。

 

子供は宝

未来を担う子供を粗末にしてはならない